安倍首相が打ち出した“同一労働同一賃金”、確かに耳あたりのよい言葉である。しかし、“同一労働”と、ひとことで言っても、欧米と違い職務領域が、良くも悪くも曖昧な日本では、何をもって同一とするのかは難しい。そもそも、“同一労働同一賃金”というスローガンが打ち出されたのは、非正規労働者の賃金が不当に安いことが問題になったからなのである。雇用主には、都合がよく解雇できる不安定な雇用の非正規労働者こそ、割高な賃金となるのが、経済原則ではないだろうか。片道きっぷより往復切符、回数券、定期券が割安になるのと逆である。といった、政治的な話が、今回のテーマではない。“同一労働同一賃金”を中国のものづくりの現場から考えてみたいと思う。

 中国企業は、人の入れ替わりが激しい、としばしば指摘される。実際に民工の入れ替わりが激しいのは当然としても、正社員である管理スタッフの入れ替わりも激しく、丁寧に教育しても、覚えたころになると辞めてしまうといったぼやきをよく耳にする。(注:かつての国営企業、現在の国有企業は、日本同様終身雇用の色彩が濃い。人材の入れ替わりが激しいとされるのは、外資、民営企業である。) なぜ、彼らはスキルアップすると辞める(転職、厳密には転社)のかを考えたことがあるだろうか?それは、同じ仕事をしている限り、何年働いても給料は、ベースアップ分しかあがらないと考えるからだ。スキルアップとともに、それを顕在化できる新しい仕事や役職を与えないと人材は定着しない。それと同じ発想が、日本の労働市場で蔓延したとしたら、高度成長期の終わった日本企業の雇用者側にとっては、酷なことなのではないだろうか。

 中国製造工場は、多能工が少なく、大勢の単能工を抱える。そのため付加変動に弱く、大所帯を食わせるために薄利多売、量に走らざるを得ないため、経営は脆弱である。なぜ、多能工が少ないのかというと、多能工が高給取りになる仕組みがないからである。例えば、溶接と旋削加工の両方ができる作業者は紛れもなく多能工であるが、溶接と旋削加工を同時にできる訳ではない。溶接をしているときは、溶接しかできない単能工と同じ労働しかしていない。“同一労働同一賃金”は、多能工に高い給料を払う根拠をなくしてしまう。逆に見れば、溶接以外に旋削加工を覚えても給料が上がらなければ、多能工になるインセンティブは存在しなくなる。

 中国工場の現場作業員に正しい加工の手順や注意点を教えても、それらが作業員から作業員へと継承されるケースは稀である。日本から来た指導員に教育を受けた作業者は、個人のノウハウとして、それらを抱え込んでしまう。同じ作業をする作業員の給料が同じならば、「教える分の給料はもらっていない!」そんな声が聞こえてきても不思議でない。経験やノウハウは、個人に蓄積されることはあっても、組織には蓄積されない。人依存、強い組織が育たない。

 賃金の基準を“労働”という顕在化されるものでのみ決めるようになってしまうと、日々活用(顕在)するスキル以外は、賃金評価の対象外となってしまう。数年に1度の頻度で発生するような突発的なトラブルへ対応などでは、「その分の給料は貰っていないから」といった無責任な発想を後押ししてしまうような気がする。

 職務領域が明確なことが前提の欧米の“同一労働同一賃金”といった概念を、都合のよいところだけを取り込もうとしてもうまくいくとは思えない。グローバル化とは、欧米に右に倣えすることではない。日本は、日本らしい、日本だけの手法で勝負すべきだろう。

 最近、筆者が強く感じることは、日本の製造現場の中国化である。「人材が定着しない」、「指示されたこと以上のことを学ぼうとしない」、「作業者同士のコミュニケーションの欠如」、「技術やノウハウ継承の断絶」といったことが、“同一労働同一賃金”によって加速しないことを祈るのは、筆者だけだろうか。(執筆者:岩城真 編集担当:如月隼人)(イメージ写真提供:123RF)